週刊とっしーぱんち

昭和生まれのブロガーが綴る、全力脱力系雑記帳

映画「狂猿」を観てきました

おはよーございます。

今回は映画「狂猿」を観てきた話です。 とても良い映画だったので、ネタバレはしないように配慮しつつ、どんな作品か、どんなことを感じたかを残しておきたいと思います。

どんな映画?

この映画はプロレスの中でもデスマッチというジャンルで活躍している葛西純選手のドキュメンタリー映画で、プロレスラーを主人公にしたノンフィクション映画自体見たことなかったので公開前から楽しみにしていた作品なんです。

生きるためのデスマッチ

デスマッチ界のカリスマ葛西選手の少年時代から大日本プロレス時代、FREEDOMSへと辿り着くまでの経緯やきっかけなどを本人の回想を交えつつ辿っていくのですが、自分が生きるための手段としてデスマッチというジャンルを確立していった、という風に僕には見えました。カリスマといえど1人の人間が苦悩や葛藤しながら積み上げ、築き上げてきたものなのだということを物語を通して感じ取ることができます。

プロである前に一人の人間

劇中何度もプロレスラー「葛西純」と、人間「葛西純」が登場します。姿形は一緒ですけど、語る場所、テーマによってプロレスラーと一般男性の部分が出てくるのはとても面白いなと見ていて思いました。個人的には奥様の寛大さというか、付かず離れず、優しく見守っている関係性が素敵でした。

何を残し、何をすてたか

これは映画を見ながら一人考え事をしていた推察や憶測に過ぎないのですが、葛西選手がこの道を選ぶまでに自分の何を残し、逆に何を捨ててきたのだろう?と考えた時に、捨てたことの一つに仲間を持つというのがあるのではないかと感じました。劇中直接的には触れてないんですけど、当時一緒に戦っていた選手の発言や、葛西選手が残してきた足跡を振り返ったときに仲間ありきでは成し遂げられない領域なんだろうな、とも感じました。捨てた、というのは少し語弊があるかもしれないですけど、誰かと組んで組織だった動きで行動していたらこの独自の世界観やキャラクターには辿り着かなかったようにも思うのです。人と違うことを挑戦するということは、誰も組む人がいなくなるということにもなり、それが孤高の存在としてカリスマを生み出すものなんではないかと、勝手に思ってしまったわけです。ついつい僕たちはこういう方達に憧れてしまうわけですが、当然ながら簡単に選べる道ではないだろうということは想像に難くないです。

プロレスを現地で観戦したくなります

プロレスラーの映画なので、実際のプロレス映像もふんだんに登場するのですが、これがまたどの試合も素晴らしいです。デスマッチということもあって流血シーン多めで血が苦手な人はドン引きしてしまうかもしれないですけど、危険を表すカラーで赤が多いのは、やはり血の色が赤だからなのかなと思うわけで、プロレスが命懸けで危険な競技であるということと、だからこそ観ている僕らは凄まじいエネルギーをプロレスラーからもらえるのだということを、改めて感じるプロレスシーンです。流血を表現手段として観れるエンタメは現代ではデスマッチだけなんじゃないかと思ったりします。そういう意味でこの映画を見たり、実際にプロレスを観にいったりして見ている人それぞれが、そのエネルギーを感じ取ってみて欲しいなと思います。表現の規制や世の中のルールが整備されていく中で今もなお続くデスマッチを観れるうちに観ておくことは、人生にとって決してマイナスになることはないと思うのです。

まだ上映している映画館もあるので、気になる方は、狂猿公式サイトからお近くの映画館を探してみてください。では、また!